書く と 読む
どんどん日が過ぎていって、次から次へと書かなければならないものがあり、
でも書くことに集中できない、いろいろなことがあるという今日このごろです。
他の人はどうかは分かりませんが、
書くことに意識を向かわせると、読むことへの意識が休止状態のようになります。
今は、その状態で、そういう時には、本を読むスピードがぐんと落ちてしまいます。
息を吐いたり吸ったりするのと同じように、
言葉の出入りも同時にできないのかもしれません。
人と人とをつなぎ合わせていく中で、さまざまなプロジェクトを生み出して面白い社会をつくることを目指します。考えるところがあって、生活プロデュース工場をメッセージ工場という名に変更することにしました。
修善寺のある建物の窓から美しい富士山を見ました。
家の窓からは、もっと大きく見えているはずなのに、
それよりも美しく見えました。
富士市というまちは、富士山が大きく見えるまちで、
富士を背景に新幹線が走る風景は、ほとんどがここから撮影されているという場所もあります。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ie=UTF8&ll=35.151012,138.720031&spn=0.003246,0.006137&z=17&om=1
でも、どこからでも美しい富士山が見えるかというと、残念ながらそうではなく、
富士市内からは、近いがゆえに、あまり美しくない富士山が多く見えてしまいます。
その一つは、電線です。
富士市内からは、見上げるとすぐに富士山がいたるところで見えますが、
その視界の中には、同時に見たくはないものまで入ってしまい、
かえって、もっと離れた場所から見える富士山の方が美しく見えたりします。
富士市内在住の建築家の伊達剛さん(http://www.geocities.jp/date_archi/)が、
富士山の姿を周りに見えるものを隠しつつ見るための「ついたて」をつくる
そういうプロジェクトを行ってみるのが面白いのではないかと話されていました。
修善寺の窓から見た富士山に感動しながら、
「ふじのついたて」プロジェクトをぜひ実現させたいという気にさせられました。
いよいよ今年も残りあとわずかになって、書店その他には手帳のコーナーができ、
結構な人だかりができていたりもします。
手帳にいろいろな機能を持たせることは可能ですが、
その中でも中心的な機能はスケジュール管理でしょう。
デザイン、1ヶ月見開きなのか、1週間見開きなのか、
書き入れる部分のスペースは?など、さまざまな条件と照らし合わせる中で、
どの手帳にしようか迷っている人の姿を多く目にします。
が、スケジュール管理についてだけいえば、
日付が間違いなく入ってさえいれば、
後はできるだけ一望できるようなものであれば、
十分だと私自身は考えます。
よって私自身は表計算ソフトで自前でつくった簡単な月間の一覧表を
半年+α分程度持ち歩くことにこの4月よりしています。
それだけで十分で、不自由をしていないのが現状です。
PISA2006の結果が発表されて、ゆとり教育の是非がどうのこうのと新聞やテレビの報道番組などで取り上げられています。
PISAとは、OECDが行う学習到達度調査のことですが、その内容を見ることなしに、結果の順位だけが取りざたされます。
私自身が、とても面白いと感じることは、PISAの結果の取り上げ方の姿勢が、さまざまなものごとについて考える力を測ろうとしているPISAのあり方に反しているということです。
中身を見ないで、上っ面の情報だけで、情緒的に判断をしてしまう。
そうならないためにも、ひとりひとりが、考えるということに手を抜かないことが重要です。
ゆとり教育の弊害がなんとかとか、最近の子供達はとか、あまり考えることなく、つぶやいたり発言したりしてしまっている大人と称する人は、まずは、自らがPISAの問題にチャレンジしてみるべきです。
日本国内ですべての年代でPISAの問題にチャレンジしてみて、
年代別の平均点の結果順位でも出してみても良いかもしれません。
文部科学省が公開している問題の抜粋のページがあります。
PDFをダウンロードしてから開けば、問題文を読むだけでも苦労するなと思えるような
記述解答を要求する問題が並んでいます。
PISAの結果について世間話をする場合には、ぜひことらの問題にチャレンジしてからにしましょう。
国際技能五輪の会場に
日本建築専門学校の学生が製作したモニュメントが
展示されていました。
東大寺南大門の様式を用いてデザインされたものです。
柱の間を通り抜けるデザインになっていたのですが、
初めはそこを通り抜ける人は多くありませんでした。
急きょ、粘着テープを矢印の形に床に貼って、
通り抜けることができることを示唆する形にしました。
たちまち、多くの人がその中を通り始めました。
また、見上げてみていただために、
中央に足型とLook up!の文字をテープも貼られました。
すると、その足型の位置に立って多くの人に見上げていただくことになりました。
良いもの、見せたいもの、があるとき、
その矢印や足型など、そこにあるということが分かるサインの存在が
いかに大切であるかということについて、改めて考えさせられました。
モニュメントの製作関係者によるブログのアドレスです。
http://d.hatena.ne.jp/fujisan-cam/
次週12月2日(日)には、
その日本建築専門学校で木造耐力壁ジャパンカップの決勝トーナメントが開催されます。
富士市の公設市場で3年前から月1回、朝市が開かれています。
これがなかなか面白いものであることを昨日知りました。
もっともっと面白いものになりそうです。
来月は、朝の早い時間から、ぜひとも訪れようと思っています。
学園祭のフィナーレを飾る花火を見て、
改めて、打ち上げ花火の効果を実感しました。
三三七拍子や一本締めのような、拍手で最後を締めくくる形の
大きなものが打ち上げ花火であるように感じます。
さあ、これで終わりですよという幕引きが、
大きな打ち上げ花火の大音響と、
たくさん開いて消え行く光によって、
演出されます。
打ち上げ花火の持つ力を再認識しました。
木造耐力壁ジャパンカップ予選の出場耐力壁の全29体分の映像をやっとUPし終わりました。
テロップもナレーションもなく、撮った素材を切り貼りしただけのものです。
編集にはWindowsのオマケソフトのムービーメーカーを使いましたが、いつのまにか進化していました。前は、テープから取り込む際に、取り込む箇所を複数選んだ後、最初の方にテープを再度戻してから取り込み作業が行われる形でした。が、今はPCの中に取り込む情報はその都度入っていて、取り込もうとすれば即座に取り込むことができます。
尾崎豊のいた夏の番組を見ていて、
歌詞に聞き入ることができた理由として、
ライブでの歌そのものの素晴らしさのためであることはもちろん、
番組としては、そこに歌詞がテロップで流れていなかったことが、
重要なことだったのだと考えられます。
もし、歌詞が流されていれば、
その字面を追って、歌に聞き入るということには
ならなかったはずです。
テロップを入れなかった編集方針に感心します。
若くして尾崎豊さんは亡くなり、
そのことは残念ではありますが、
もし生き続けていたとしても、
そういう生き方はしなかっただろうと思いながらも、
今現在、
そのまま芸能界というところで生きることになって、
バラエティ番組に出て日常生活等について話したりする
という存在になっていないことについては、
大いなる救いです。
NHKのプレミアム10という番組で
尾崎豊がいた夏 知られざる19歳の素顔
という内容が放送されていました。
大阪球場で行われたライブの準備からのフィナーレまでが
編集されていました。
途中には茂木健一郎氏のメッセージがはさまれていて、
あらためて歌詞に聞き入ったりもできました。
学校教育の場で提供できることは何か?
などということも自分自身においては、
考えさせられもしました。
NHKも、民放のバラエティー番組をまねたような番組や、
なんとなくいろんな人々の意見を集めたような感じで終わる
トーク番組などではなく、
こういうメッセージ性のある番組をつくってくれていればいいのに
と改めて思いました。
尾崎豊さんのそのライブ以降の生き方が、
なぜそうなっていったかということには
ふれられていませんが、
勝手に頭の中に浮かんできたのは、
人の生き方そのものについて考え抜いて
歌をつくり、歌うことを続けていこうとしたときに、
商業主義のようなものとの折り合いは、
おそらくつかなかっただろうなという
想像です。
とにもかくにも
いろいろなことを考えさせてくれた番組でした。
新書本のシリーズがどんどん増えて、多くの本が登場しています。
内容も面白く、日ごろものを考える際の刺激となるような本もあります。
が、数が出る割には、読む気が起こらないようなものがたくさんあります。
より良いコミュニケーションをとるためのマニュアル本めいた新刊書が目立ちます。
その多くが、読む気が起こらないタイプに多く含まれます。
すべてを読まずしていうのもなんですが、
それらの本の中には、
自分と人との間にある種の無意識の壁の存在を前提として、
いかにより良いコミュニケーションを行うかというような発想で書かれたものが、
多く存在するように感じます。
プレゼンテーションについて書かれた本も同様で、
それはそれで大事ではあるものの、うわべでいかに良く見せるかについて、
そのテクニックを紹介しているだけのような本があります。
就職などの面接についてのマニュアル本でも
多くは、真面目にそれを読んで、そこに書かれた形式をなぞっているようでは、
駄目だろうなと思えるような本が目立ちます。
今の
コミュニケーションに関する本の編集内容や出版される状況が、
そもそも、コミュニケーション不全の世の中となっている兆候を
示しているようにも思えてきました。
プロデュースというのは、もの、ひと、こと、いろいろなものを
「あわせる」ということなのだと捉えています。
昨日、映像製作のプロデューサーである方のと話の中で、
まさに、日々の仕事が、スタッフのこと費用のことなど、
いろいろなことをあわせて、作品を完成させる仕事なのだと、
いうこことを伺いました。
プロデュースというのは、もの、ひと、こと、いろいろなものを
「あわせる」ことなのだと捉えることにますます自信が持てました。
ちなみに、たくさんの「○○あわせる」があります。
組み合わせる 重ね合わせる 出会わせる つなぎ合わせる
結び合わせる 留め合わせる 縫い合わせる 付き合わせる
絡み合わせる 足し合わせる 話し合わせる 見合わせる
読み合わせる 埋め合わせる 掛け合わせる よじ合わせる
申し合わせる 混ぜ合わせる 貼り合せる 照らし合わせる
すり合せる
○○を合わせる というものを入れると無数に、
いろいろと合わせるものがあります。
ものごとを進めていくにあたって、目標を定めて、
その具体的な目標に向かって活動していくことが、
ゴールに向かうための秘訣です。
さまざまなプロジェクトを成し遂げようとする時、
目的を見失わないように全体を見渡しながら、
次なる活動の目標を定めて、活動していきます。
勉強するという行為を考えたとき、
その目的を見失わないようにすることと、
その目的を達成するための段階に応じた目標を定めることが重要です。
目的を見失うどころか、あまり深く考えず、
目標だけは、受験のためのというとても分かりやすい設定をする。
「結局は、そうせざるを得ないんだよね。」
なんて諦めのような印象を伴って、
そういう場面が、とても多く転がっていそうです。
人が生まれること、死ぬことは運命で、自分の力ではどうにもできないものです。
が、自分で自分の命を絶つことは可能です。
それは、人生のステージの上で得ている権利なのかもしれません。
この権利がなく、自らの意志で舞台を降りることができない、
自分で命を経つということが絶対にできないということになると、
恐ろしく人生というものが息苦しいものになりそうです。
自分で命を絶とうと思えば経つことができる。
そういう権利を持ちつつも、生き続ける。
そうして面白く生きていくことを、
あれやこれやと迷いながらも続けていきたいものです。
自分で命を絶つという選択肢を持っていることを意識しながらも、
それを行使せずに生き続けることが、
この世に生まれてきた運命を生かす秘訣です。
人生の目的は?って問いにどう答えますか?
旅のように考えてみたとして、
仮に東京から大阪に向かうことを想定すると、
終着駅となる大阪のような目的が人生に存在するものなのでしょうか?
人生の時間の最終的な終着駅がどこかと考えると、
それは死を迎える寸前ということになるでしょうか?
もし、そうであるのなら、
人生の目的は、どうやら終着駅にあるのではなさそうです。
終着駅にたどり着くまでの道中の過ごし方こそが重要です。
今を生きるなんて、いう話がよくなされますが、
ある目的に達するというゴールが存在するのではなく、
常に道中を楽しみながら旅を続けること自体が、
あえていえば、目的となります。
スローキャリアという本に、幸せのキャリアをつくる10の行動特性というものが書かれています。
その本には、14の企業の20代後半から40代前半の2400名の社員への80項目の質問の回答を集計した分析結果について、解説されている箇所があります。その結果から、やりがいや充実感をもっていることと相関の高かった行動特性をピックアップして、その10個の内容が示されています。
私自身は、それを読んで鳥肌が立つように感じました。それは、何か見透かされているかのように、自分自身の普段の行動特性が、見事にそこで示されている項目に合致していたためです。どうりで普段から充実感を得て仕事できているんだと、改めて納得・確認してしまいました。
雑誌SPAの4月10日号に
説明会の参加者は2人!「短大消滅」の現実度
という特集記事が掲載されています。
評論家の一般論、なんだこれはというようなオープンキャンパスへの記者の体験記、さらには、あまりにひどすぎる状態に逆に感心させられてしまうような、短大職員、教授、学生のコメント、などが掲載されています。
また、そこには「(企業が)短大卒を採用する必要がないんです。」とか「今や短大のみを経営する学校法人はほとんどないでしょう。」というような評論家のコメントなども載せられています。
その評論化がほとんどないという、珍しくも短大のみを経営する学校法人の短大で、企業からも欲しいと言われる卒業生が毎年多く出るという元気な短大にいる身としては、この特集記事でイメージされている短大像は、まったく別世界のようです。ここで書かれているものを短大の常識であるとするならば、驚異!こんなに元気なビックリ短大が存在した!なんて記事を書くための取材をしに、私が勤務する短大に来てもらいたいものです。
(ちなみに、すでにこの間行われた次年度募集に関わるオープンキャンパスも活気あるものでした。)
ある番組の捏造について、その経緯を調べた内容と、今後同じような問題を起こさないためにどうすべきかについて語られた番組が放送されました。科学的根拠に乏しいことがらについて、データをでっち上げて放送したものが複数あったことが示されていました。番組を見て、今回の事件の原因として、確かな情報を伝えるという根本的な姿勢が当事者に欠けていたという印象を受けました。
その番組を見終わって、ふと引っ掛かりを感じたことがあります。そもそも数多く放送されているCMにおいて、そこで与えられる情報が捏造されたものではないにしろ、効果や効能などは不明確で、商品のイメージのみが伝えられるだけのものが放映されて、その影響を受けて視聴者がものを買ってしまっているという現実です。消費者が、確かな情報を得たり、ものをしっかり考えないで商品を買ってくれるという前提でCMが放映されているとすれば、「確かな情報を提供するという根本」の根本そのものから問わなければならないのかもしれません。